第1回 ミッチ・アブシャー Style for miles ~西海岸サーフカルチャーの伝道師

第1回 ミッチ・アブシャー Style for miles ~西海岸サーフカルチャーの伝道師

現代ロングボードシーンにおけるルネッサンスマンであり、西海岸サーフカルチャーの最重要人物として知られるミッチ・アブシャーが自身のブランド、BEACHED DAYSのプロモーションのために3年ぶりに来日した。

これまでCAPTAIN FIN CO.を立ち上げ、昨今のVANSダクトテープのイベントではジョエル・チューダーのサイドキックとして、コンテストディレクターを務める。またオーシャンサイドでCAPTAINS HELMを手がける一方、プライベートでは家族と共にテネシーに移住し、理想的なデュアルライフを実践している。今回はこれまであまり語られることがなかった自身の過去についてや、プライベートに迫るインタビューをお届けする。

 

 

まずは自己紹介をお願い。

ミッチ・アブシャー、45歳。いまはテネシー州のコロンビア在住。CAPTAINS HELMのショップがカリフォルニア・オーシャンサイドにあるから、自宅と行ったり来たりしている。あとはVANSでの仕事や、BEACHED DAYSの製品プロデュースに携わっている。 

 

 

サーフィンを始めた時のことを覚えてる?

もちろん。実は一番最初に手にしたのはブギーボードだったんだけどね。夏に母親とカリフォルニア・サンクレメンテのTストリートに行って、荷物をビーチに置いて、売店にスナックを買いに行った。そしてビーチに戻ったら、誰かが俺のブギーボードを盗んだんだ。

それからしばらくして、本格的にサーフィンを始めたのは9、10歳の頃だったと思う。いとこがみんなサーフィンしていて、お前もサーフィンやりたいの?ってね。ショートボードから始めたんだけど、近所に8フィートのボードを持っているおじさんがいて、彼に借りて長いボードに乗るようになった。波をつかまえるのは簡単だったからね。当時はオレンジカウンティのミッションビエホに住んでいたから、近くのドヒニーやサンオノフレに連れて行ってもらっていた。

朝の7時にビーチに行って、日が暮れる夕方の6、7時にピックアップ。一日中ひたすらサーフィンして、友達とビーチでハングアウトする日々。週に4、5日は海にいたかな。これこそが自分の中のビーチでの体験、BEACHED DAYSの始まりなんだ。


それからロングボーダーとしての経歴がスタートしていると思うけど、故ドナルド・タカヤマさんとの出会いはどういったものだったの? 

一番最初は、サンオノフレでジョエル(・チューダー)が彼のロングボードに乗っているのを見たのが始まり。もちろんジョエルは当時から抜群に上手かったよ。12歳でビーチにいる誰よりも上手かった。

そしてビーチで友達になった同世代のコーリー・シューマッハは、一家でみんなドナルドのボードに乗っていてね。シューマッハ家からの紹介で、彼のボードに乗るようになった。のちに13歳か14歳の頃に俺の家族が南のサンディエゴのカールスバッドに引っ越して、それからドナルド(・タカヤマ)のオーシャンサイドにあるファクトリーで働き始めた。

朝の6時、7時頃、両親にファクトリーで降ろしてもらい、それから床掃除をして、サーフボードの梱包作業。で、11時から14時まではひたすら彼のシェイピングを眺めていた。ただシェイプルームにつっ立っていただけど、いい話もいっぱい聞けてね。ただ一緒にハングアウトしているだけで楽しかった。もちろん、彼のアイデアや仕事のやり方など、当時は充分に理解できておらず、ただ見ていただけだけど、単なる昔話だけじゃなくて、先人からカルチャーやヒストリーを学んだすごく貴重な時間だったのは間違いない。なかでもベストパートはドナルドのために働くことができたことだね。歳を重ねたいま振り返ってもとてもいい時代だった。 

 

彼がサポートするキッズで、グーフィーのジョエル・チューダー、レギュラーのミッチ・アブシャーとして知られていたよね。当時、ロングボードに乗っているキッズは相当珍しかったのでは?

最初はジョエルで、シューマッハ、エリック・サマーや俺がキッズでサポートしてもらっていて、後からデヴォン・ハワード、ダレン・レディングハムやマイキー・ディテンプルらが加わった感じかな。

当時はいまと違い、ロングボードに乗るのはおじさんばっかりだった。クールなイメージは全くなかったし、ローラーブレードと同じ扱いさ(笑)。カリフォルニアのコンテストはいつも同じメンツで、キッズは全員合わせても10人くらいしかいなかった。

 


そこからコンペティターの道には進まなかったの?

自分はコンテスト向きのタイプじゃ全くない。大会で同じくらいの歳の子とサーフィンするのは楽しかったけど、PSAA(アマチュアツアー)の対戦相手はだいたい30〜40歳のアグレッシブなタイプ。14歳で始めたけど、ヴァイブが違いすぎて2年後には辞めてしまった。一方、ジョエルはコンテストで大人相手に勝ち続けていたけどね。

コンテスト自体のアイデアについては良いと思うけど、個人的には全く楽しめなかった。当時はパーティー三昧、そのまま友達の家のカウチで寝泊まりしたりと、とにかくその時が楽しければ何でも良かったんだ。

 

サーフィンが上手ければプロサーファーという道があって、プロはコンテストに出るのが当たり前の時代だったよね。

地元の友人のベンジー・ウェザリーや、テイラー・スティールのモーメンタム・クルーもコンテスト主体のサーファーじゃなかった。彼らを見ていたから、より幅広い視点でサーフィンを捉えていたんだと思う。のちに(枡田)琢治のTYPHOONのプロジェクトに加わったのも、同じようにサーフィンをコンテストの側面で捉えていなかったから。コンペだけを追求しようとしてもどうしても飽きてしまうから、それよりも違う方向に進んだ方がいいと思って生きてきた。

ダクトテープも同じさ。コンセプトはアンチコンテスト。WSLのサーフコンテストのフォーマットとは全く違うのさ。

 

ダクトテープでは最初のイベントからディレクターとして携わっているけど、詳しく聞かせて。

ダクトテープはジョエルのアイデアで、最初は2010年のヴァージニアのVANSのコンテストに乗り込む形で始まった。次のニューヨークからは自分たちだけで運営となり、全員が同じロッジに泊まってハングアウトしてサーフィン。いまでもコンテストの時は同じエリアに泊まり、一緒に行動している。

インターフェアコールはなし、招待制で会場は毎回変わり、ファイナリスト以外はメンツも変わるといった、コンテストではこれまでにはなかった真逆のことをやっている。みんながオープンマインドでアイデアを出し合い、次回がどうなるのかも分からない。男女、若手をプラットフォームに含め、お披露目するという点が俺がコンペに出ていた時とは大きく異なっているかな。自分と同年代のタイラー・ハジーキアンやCJネルソンらが出たことはあるけど、基本的には新たな世代を取り込むということがコンセプトのひとつ。

2023年はどうなるかはまだ言えないけど、2、3ヶ所でコンテストを予定している。アジアのリージョンでの開催はたぶん再来年かな。

 

2019年秋に鵠沼海岸で開催された日本のダクトテープはどうだった?

最高だったよ。観客も含めて、みんなが楽しんでいたし、出ていた奴らは楽しみすぎていたね。笑顔がすべてを物語っていたよ。もちろん、波がもう少し大きかったらというのはあるけど、それは重要なことじゃない。コンテストだから世界中どこへ行っても波が小さいことはあるし。

 

ダクトテープ以後、ロングボードにまつわるシーンは変わった?

どうだろう、ジョエルがいまのロングボードのシーンを大きく変えたのは間違いないよね。以前は2+1のサイドフィン付きのロングボードが主流だったけど、彼によって突如シングルフィンの方向にシフトした。ひとくくりにシングルフィンといっても昔とは違って、ロビン・キーガルからタイラー・ハジーキアンを見てもスタイルが全く違う。ロングボードにはプログレッシブなところもあるけど、やはりトラディショナルな側面が強い。

変わったこととしてひとつあげるとしたら、若い世代がロングボードをシェイプするようになったことかな。自分の時はキッズがロングボードを自分で作るなんてことはなかったしね。ダクトテープでは、ボードをコンテストに持ち寄り、その後はそのボードをローカルショップに置いていって、誰もが試せるようになっているんだ。

 

 

WSL、いまのロングボード・コンペシーンについてはどう思う?

デヴォンが関わったのはナイスだね。よりトラディショナルな方向に舵を切るように、プッシュして成功させた。いま彼はもうWSLにいないけど、新しいディレクターも彼の方向性を引き継いでくれるといいかな。今後どうなるかを注意深く見守っているよ。俺はダクトテープのフォーマットが好きだけど、みんながみんな好きなわけではないからね。いまは3、4つのWSLイベントがあってワールドチャンプを決めているけど、活躍できる場があることはロングボード界にとっては良いことだと思う。 

 

これまでの自身のスタイルを形成する上で最も影響を受けた人物は?

おそらくドナルド・タカヤマとハービー・フレッチャーの2人だろうね。70年代にはボードデザインにおいてロングボードが廃れ、80年代から90年代は暗黒期で、誰もロングボードに見向きもしなかった。彼らがいなければ、まさにいまあるロングボードの存在自体が無くなっていたかもしれない。ドナルドはショートボード全盛期の時にもロングボードを作り続けていたし、ハービーはプログレッシブなスタイルでロングボード・サーフィンの限界に挑戦していた。そして誰も作っていなかったロングボードムービーを変わらずっとリリースしていた。

それってすごいことだよね。他の人間がどう思うかなんて関係ない! メインストリームではロングボードなんてどうでもいいと思われていた時代に、自分の道をプッシュし、突き進んでいったんだ。自分にとってロングボードはパンクロックだったけど、それはハービーの存在自体がパンクだったから。俺は彼ら2人と一緒にいて、とてつもない影響を受けたと思う。

 

カリフォルニアのキッズの多くはアーリーティーン、10代初めでサーフィンの洗礼を受け、どっぷりはまるけど、20歳になる頃にはバーンアウト、燃え尽き症候群みたいな感じになることが多いよね? いまから25年程前にミッチに会ったときは、サンディエゴじゃなくてLAで、自分のボードはもちろん、ウェットスーツも持っていなかった時代だったよね?

ああ、あの頃は1年にほんの数回サーフしてるような時だった。ボードやウェットスーツも人に借りてね。どのスポーツをやっていても同じようなことが起こるとは思うけど、バーンアウトしている状態だった。偉大なサーファーのグレッグ・ノールやフィル・エドワーズもサーフィンから離れていってしまったようにね。もちろん自分は彼らと同じレベルのサーファーではないけど、パーティー三昧で夜な夜な飲み明かして、すべてがどうでもいいような感じだった。

クリスチャンになってからはそれまでのライフスタイルを改め、すべてのことに感謝するようになり、サーフィンにも復活できた。いまはかつてのティーン時代とは違う視点でサーフィンを楽しんでいるし、家族もいるから日々の生活を大切にしているよ。

 

 

数年前にカリフォルニアからテネシーに移住してデュアルライフを送っているよね。でも一体なぜテネシーへ?

カリフォルニアのコーストラインには多くの人が移住してきて、いまは明らかに混み過ぎている。家族のためにも広い土地が欲しかったけど、やはりリッチでないと難しい。そこそこの広さを求めると、海まで2時間くらい離れた内陸になってしまう。それなら選択として他の場所、州はどうだろうかと考えた。混雑がなく、静かで平和な場所へとね。

テネシーに住んで、海までは6時間。以前とは全く違うライフスタイルで、小さい農場に住んで、牛、馬、山羊、鳥を育てている。とはいってもCAPTAINS HELMもあるし、VANSの仕事もあるから、月のうち1〜 2週間はカリフォルニアにいる。いまはカントリーとビーチのコントラストでいい感じに生活できている。サーフィンも好きだけど、それだけじゃない。歳を取ったっていうものあるけど、田舎でのんびり牛を育て、家族と過ごすのも悪くない。

今回の来日では宮崎に行ったけど、東京と宮崎に住むのも同じようなアイデアじゃないかな。2つとも全く違うライフスタイルで、宮崎はビーチがあって、ゆっくりした時間が流れている。でも都会も好きだから、どちらもあるのがいい。だからいまのライフスタイルはハッピーさ。

 

今回のジャパンツアーはどうだった?

東京、大阪を経て、地方の宮崎に行ったんだけど、すごくいい波だったよ。カントリースタイルで落ち着け、地元にいるような感覚だった。ステイしたOCEANSIDE RANCHも本当に素晴らしかった。ロケーションも最高で、短い期間だったけどアウトドアテイストのバケーションスタイルを満喫できた。実際これまでに数え切れないほど日本に来ているんだけど、今回は実に3年ぶりかな。実に感慨深いものがあったのは事実なんだ。

 

以前のBEACHED DAYSの雑誌について。どういうコンセプトだったの?

以前、琢治と一緒に仕事していて、彼がSUPER X MEDIAマガジンでやっていたことにとても影響を受けた。あの時やっていたことはとてもインクルーシブ(包括的)で、サーフィンだけでなく、スケートやスノーからストリートアートまで幅広く取り上げていた。個人的にプリントメディアが好きだし、その世界観をBEACHED DAYSで表現できれば面白いと思ったんだ。

キッズの頃から俺のライフスタイルはビーチにあり、サーフ、スケートのミックス・カルチャーは同じくビーチが起源。サーフィンにまつわるカルチャーは幅広く歴史があって、古くはブルース・ブラウンの映画でダートバイクを取り上げていたし、ハービーは60年代からプールでスケートボードをしていた。そしてサーフィンはアートの世界にも通じている。

 

 

雑誌はどれくらい関わっていたの? もしBEACHED DAYSを復刊するなら何をしたい?

制作はデザイナー、ライター、自分の全部で3人。レイアウトのアイデア、インタビューの人選、セットアップは自分でやっていた。今なら雑誌や本の形式で一年に一回発行するのが理想だね。近年、プリントメディア、雑誌のカルチャーが廃れてしまって、誰も紙の雑誌を買わなくなったから難しいとは思うけど。

 

BEACHED DAYSブランドについて。

BEACHED DAYSはマガジンから派生して、サーフィンからキャンプ、日々のライフタイルにまつわるプロダクトを作っている。ビーチチェア、ブランケットまで、サーフィンだけに固執することなく、トリップやアウトドアで役立つものがコンセプトなんだ。これからもよりFUNで、使いやすいもの、アドベンチャーを気軽に体感できるプロダクトを提供していくよ。

 

今後のBEACHED DAYSの展開は?

今後はJJウェッセルズとサーフトリップに行って、ショートムービーを作る予定。アドベンチャーなライフスタイルをテーマにね。来年の夏までには仕上げて、秋にはツアーをやってお披露目したいね。楽しみにしていて。

 

普段乗っているサーフボードについて教えて。

メインのボードはクリステンソンの3本を使い分けている。基本はボネビルで、長さは9'8"から9'10"を行き来している。ビッグボードのクリスクラフトは、10'6"のスラスター(トライフィン)でグラスオン。スキップ・フライが好むスタイルだね。そして11'2"はシングルフィン。短いボードはハンツマンの7'10"のシングルフィン。あとはフラットトラッカーのトライフィン、7'6"から8'2"。俺の身長は6'2"(188cm)あるから、長めのボードがしっくりくる。

 

今回の来日では宮崎のビーチブレイクで新しいミッチ・モデル(MITCH OG MODEL)を試していたね。

今回乗ったボードは以前のミッチ・モデルをアップデートしたもの。ムーンテールが特徴で、いわゆるクラシック・ロッカーを採用している。その後、モデルになったボネビルはリバースロッカーでスクエアテールになったけど、ディメンションはほぼ同じ。リバースロッカーはノーズをキープして、コントロールがしやすい一方、ミッチ・モデルのロッカーはトロくて力のない波に向いていて、よりドライブが効いたターンが出来る。ムーンテールは、テールを沈めやすく、ターンのきっかけを作ってくれる。

 

 

今回の来日でも、特徴のあるサインドローイングを書いていたよね? あの独特のスタイルはどこから来ているの?

エド・テンプルトンやバリー・マッギー、トーマス・キャンベルのやり方、アートを見て、自分なりに表現しているのかな。もちろん彼らは素晴らしいアーティストであって、俺はただ楽しんで書いているだけだよ。

 

最後に日本のみんなにメッセージを。

みんながビーチでより楽しんで貰えたらいいな。BEACHED DAYSのスローガンはHAVE FUN! サーフィンや物事に対してシリアスになりすぎることもあると思うけど、ビーチに行くことやアドベンチャー、キャンピング、何をしても楽しむことが大切。楽しんでいなければ、それは間違っている。人生は一度きりだから楽しんだ方がいいからね!

 

インタビュー/川添 澪(かわぞえみお)●神奈川県鎌倉市出身・在住。カリフォルニア州立大学サンディエゴ校・サーフィン部卒。日本の1stジェネレーションのサーファーを父に持ち、幼い頃より海外のカルチャーに邂逅。90年初頭から10年間に渡り、カリフォルニア・サンディエゴ〜マリブに住み、ロングボード・リバイバルを体感。帰国後はON THE BOARD編集長に就任し、GLIDE他の雑誌媒体を手がける。これまで独自のネットワークでリアルなカリフォルニアのログ、オルタナティブサーフシーンを日本に紹介。

Portrait and Water shots:by u-skee

 

 

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