第11回 ”Pero” 林 宏行 No Wasted Days〜アンチメインストリームの美学
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今やオリンピック・スポーツになったショートボードのサーフィンとは一線を画すクラシック・ロングボーディングの世界。その中に60年代から続くその歴史を継承する孤高の天才シェイパー・サーファー、ロビン・キーガルという存在がいる。
Peroこと林宏行氏は、彼と長年に渡り親交を深め、カリフォルニア、オーストラリア、ハワイだけでなく、ヨーロッパにも何度も渡り一緒に旅をし、その姿をレンズに収めてきた。これまで撮影したカットはゆうに数万枚を超えるが、そのほとんどが未発表だという。今回はPero氏から見た真のロビン・キーガル、そして共に未知なる波を追い続ける意味について話しを聞いた。
(Robin Kegel, Morroco. 2011)
Pero君と言えば、先日も来日していたロビン・キーガルと多くの時間を過ごしてるよね? 実はこの連載の中で何度も話しが上がってきているのがロビンなんだけど、そもそも仲良くなったきっかけは?
確か今から15年前位の2009年頃に、ロビンと初めて二人っきりで行ったトリップがあってそれがきっかけかな。来日したときに波がありそうだから急遽、種子島に飛行機で行くことになったんだけど、ロングボードは持って行けないから短めの板を1本だけ持って行った。本当に二人だけだったから、最初は何かソワソワしちゃってお互いよそよそしい雰囲気だったんだけど、行ってみたら波のサイズもオーバーヘッド位あって最高で、それで大分仲良くなったってのがある。
今回も波がありそうだから、ロビンやカイ・エリス・フリントとユーリコらでまた種子島に向かったというわけだね。ちなみにその写真どこかの媒体で出す予定?
いや、掲載は未定で何も決まってない(笑)。前回当てたポイントはテトラが入っちゃって波質も変わったらしく、それ以降デカい波がブレイクしなくなっちゃったらしい。地元の人の間ではアレックス・ノストが来たという話しになっていて、ロビンにはそのこと言えないけど(笑)。
Pero君は世の中に発表していない未公開写真が山ほどあることでも有名だけど、これまでに撮りだめた写真はどうするの?
もちろん出すよ。まずは一冊写真集をちゃんと作ってみようと考えている。これまで写真を出さなかった理由は、俺が撮ってる奴らは結構みんな著名だったりするから、著作権のこととか色々大変かなと思ってさ。でもビンテージワインのよう眠らせとけばいいことだから、ちゃんとタイミングが来れば出そうと思ってる。まずはロビンでちゃんとできるかどうかだけど、まだ出してない。やっぱもうちょっと大きい波で撮りたくて、俺の中で納得いくのがまだないというのが理由かな。
(Robin Kegel, Guitaly. 2012)
サーフィンと出会ったきっかけは?
元々中学からずっとサッカーをやっていたけど、大学は写真学科に入ってカメラマンになろうと思っていた。そして将来はネイティブアメリカンがいるところかブラジルの金の炭鉱みたいなところに行って、私欲にまみれたいい顔した大人たちがいる世界を撮って写真家としての名を揚げようと考えていた。でもそのためには何か食いぶちが必要だな、と考えた時に思い浮かんだのがバーで働くことだった。世界中に酒場はあるから、バーテンダーの知識があれば雇ってもらえると思って。それで辻堂のバーで働き始めたら今度はサーフィンにハマっちゃった。周りにロングボーダーが多くて、しかもシングルフィンにこだわっているスタイルが格好いいなと。
最初にペロ君と出会ったのはまさにその辻堂のバーだった(笑)。
そうだね。初めてサーフィンしたのは高校生だけど、大学入ってからバーで知り合った人をきっかけに始めたからかなりの遅咲きの方。それから毎日チャリンコを漕いで海へ行く途中に、「こんにちは」って挨拶するようになった近所の人がいた。実はその人はサーフアパレル、SPRAWLSの社長で「君は何やってる人なの? 写真やってるなら今度ちょっと遊びにおいでよ」って声かけて貰い、ウェアの撮影を広告で使ってもらったのがカメラマンとしての初めての仕事。その広告を見たNALUの佐野ちゃんから友人づてで連絡を貰い、今度はNALUでサーファーのポートレート撮影の依頼が来た。一発目は忘れもしないMODERN AMUSEMENTのジェフリー・ヨコヤマさん。その後は中村清太郎君、ショーロクさんとかを撮ったね。
スタジオなどの下積みの前に、すぐ現場だったんだね。
そう。雑誌の連載が始まって1年位経った頃に、 SPRAWLSの社長から「ちょっとお前に会ってみたいっていう人いるんだけど」って言われて今は無き葉山のデニーズに行ったの。それが写真家の芝田満之さんで、たまたまSPRAWLSのところで自分の写真を見て、俺のこと手伝わないかなって言ってくれたみたいで。大学を卒業して外苑のスタジオで7ヶ月位働いていたたけど、結局辞めちゃって独り立ちするほどじゃなかったから、写真だけ見て貰って最初はお断りしようかと思ってた。だけど「そんなこと言ってたらさ、ずっと始まんねえじゃん。俺が1回目でやりゃいいよ」と言ってもらえて何ていい人なんだって思ったよ。最初はキャンペーンガール時代の井川遥さんを八丈島で撮影するアシスタントだった。それから毎日だったり、少し時間が空いたりしながら数年に渡り一緒に仕事をさせて貰ったけど、俺も失敗することもあるじゃん。そんな時でも芝田さんは一度も怒ることもなくフォローしてくれたからもう頭が上がんないよ。
(Cody Simpkins, Sano, CA. 2004)
その後、やっと独り立ちしてカメラマンとして駆け出しの時に少しまとまったギャラをもらって、その金で友達二人とカリフォルニアに行ったの。サンオノフレでサーフィンして、その合間に上手い奴を撮影していたんだけど、その時に自分のフィルムカメラと長玉のレンズを見て「お前、クラシックだな」と声をかけてきたのがコーディー・シンプキンスだった。後でそれが誰かを知るんだけど、ロビンも彼のシグネチャーモデルを作っていたんだよね。「俺たちはあそこのバンにいるから後で遊びに来いよ。友達もいるんだろ」って言われて遊びに行ったんだけど、カメラ向けて撮ってても何も言わなくて、みんなでビール飲んで最後はキャンプファイヤーまでやってくれて最高じゃんって。
友達の健太郎はその時シーコングで働いていて、その帰りにロビンの家に寄ったのが彼との最初の出会い。また次の日もちょっと挨拶に行く流れになって、ロビンのことをまた勝手に撮影してた。これからここをシェイプルームにするって言ってる矢先に、そのパネルをスケートランプにしちゃたり(笑)、そこにはトーマス・キャンベルもいた。
帰国してそれらの写真を現像して、NALUの佐野さんに見せたら、「今度カリフォルニアで撮影があるからちょっと行ってみます?」って誘われて行ったのが初めて仕事として行った海外の取材。ロビンとアレックスのポートレートがNALUの表紙で使われたやつ。
(Robin Kegel, CA. 2005)
(Al Knost, Newport Beach, CA. 2005)
ロビンはいわゆる古き良き時代に生きるサーファーで、周りに迎合しないスタンスを貫くイメージがあるよね。
ロビンはやっぱりサーフィンのことだけを考えて生きてきたような気がするし、本気でやってきたからこそ今があると思う。いい波に乗ることに対するハングリーさがあるから、例えどんなにパーティーでベロベロになっても、波があればムクっと起きてサーフィンに行く感じ。ボード作りに関しても同じで、膨大な知識があるから、その中で自分がかっこいいと思っていることを形にしていく。それをやることが彼の運命みたいなものだよね。
追い詰められないとシェイプを始めないんだけど、一度取りかかると異常な位の集中力で本当に長い。俺は英語も喋れないし、他に行くところもないからただずーっと撮影してるんだけど、他のみんなはそのうち疲れて帰っちゃう。何を撮影していても怒られない間柄になったのは、話して仲良くなったっていうより、同じ時間を共有することで築き上げたものなのかもしれない。
(Robin Kegel, Dana Point, CA. 2011)
これまで日本ではバーで暴れたとか、ホテルを出禁になったとか様々なエピソードもあって、話しだけを聞いてると奇人変人と思われがちだけど(笑)、これまでの日本のイベントではユーザーやファン一人一人を大切にしている印象が強いな。
カリフォルニアの中では主役の中の1人ではあるから、パーティーで本気でケンカをして歯が折れたとかは聞いたことはあるけど、俺が一緒の時は普通に酔っ払って、朝まで飲み歩くとかそういったレベルの話し。あ、ちょっと前に聞いたのは、朝にホテルの部屋のドアを壊してしまったらしく、ヒンジを治してくっつければ大丈夫だから直しに行こうとか言って、そのドアをハズして車の中に入れて持って行こうとしていたらしい(笑)。
でもさ、さっきも言ったようにロビンは波があればサーフィンして、なければシェイプに没頭する。彼が一度カリフォルニアを離れたのも、地元の波は知り尽くして乗ってきただろうから、オーストラリアやヨーロッパに眼が行くのは自然の流れなんだろう。いろんなポイント、面白いところでサーフィンしたいという。未知なる波に対してどう攻めるかということを想像して、それに向けたボードを日々考えているんだよ。サーフィン界では1960年代にサーフボード・レボリューションが起こったじゃん。そこであいつが言ったのが、サーフボード・レボリューションが起きてそれ以降のボードは短くなったけど、俺は当時のロングボードを長いままで進化させていって、新たな動きを追い求めていると。
それに関してはさ、彼がタイラー・ハジーキアンのライダーをやっていた影響が大きいと思う。世の中から消えてなくなっていってしまう1967年以降のロングボードデザインね。タイラーの解釈とロビンの解釈では方向性は全く異なるけど。
オーストラリアに行って、その後移住したヨーロッパではレールが薄くなってピンチになってったものを作って、どのフィン、どのレール、どの長さで攻めるかってことを日々考えていた。バスクに住んで、ギタリーのデカい波とかも突き詰めていたね。でもその後言ってたのは、みんなはモロッコがいいって言ってるけど、多分一番はポルトガルだぞって。実際、ポルトガルのユーリコとも知り合っているから。一緒にクリーム、ガトヘロイを立ち上げたクリス・ボーライクを始め、彼の周りにいた人はもうみんないなくなっちゃったみたいでさ。ケンカ別れみたいな形もあるみたいだけど、それは個人主義が強いアメリカ人同士というのも理由かもね。
(Forever Chiz, Morroco. 2011)
これまでカリフォルニア、ハワイ、オーストラリア、ヨーロッパとかなりの時間をロビンと一緒に過ごしているよね。変な意味じゃなく、ペロ君は英語がペラペラなわけじゃないのにタフなメンバーとよくやっていけるなと(笑)。
俺なんかはこう、シングルフィン・ロングボードの格好いい部分を、本当にあいつが体現してやっている部分があるからずっと一緒にいれるっていうのもある。若い内の血気盛んな時にそれをフルで見れて、しかも撮影できたことはラッキーだったと思う。もちろん数え切れないほどのアクシデントや旅のトラブルも付きものだったけど(笑)。
カリフォルニア、オーストラリアはともかく、ヨーロッパもかなりの回数行っているよね?
1年に1回は年末に必ず行ってたから、それが5年続いた。1年に2回行ったときもあるね。まずフランスに行って少し滞在してから、車でロビンと一緒にスペインまで行って、スペインからフェリー乗ってモロッコとか。それが3週間とか1ヶ月の期間。雑誌と絡めて行っても、お金が入って来るのが半年後とかだからマジで大変。でもさ、俺はロビンのことを本物だと思っていたし、カメラマンにとっては最高の機会だから全然やれたけどね。普通は金になんないのにヨーロッパまで撮影行くことなんかないだろうけど、今ならできるしジジイになったらやれないだろうなと思ってね。その中でもシーコングの田中俊英さんのサポートは本当に筆舌に尽くし難いし、シングルフィン・ロングボードのレジェンドである中村清一郎氏に頂いたフランス、モロッコでの一食一飯の恩義や、大人の嗜みを学ばせていただけたことも最高の財産で今の俺の礎となっていると言えます。
ここまでの話しを聞いていると、いつの日かこれらの未公開写真が発表されるのが非常に楽しみだ! 最後にペロ君にとってビーチとはどういう場所なの?
何だろう。運良くこの地域で生まれたから、この流れに飛び込めたというのはあるかもね。海の近くにいることで仕事も生まれたし。ラッキーなことに生まれ育ったところで自分の好きなことをやっているうちに、いつの間にか運良く波と共に生きている素敵なサーファーに出逢えて導いてもらっている感じだね!
"Pero" 林 宏行(はやしひろゆき)●1972年生まれ、藤沢市鵠沼出身、在住。カメラ好きの父親を持ち、東京工芸大芸術学部写真学科に進学。同じ湘南在住の映像・写真家の芝田満之氏のアシスタントを務め、撮影や人生のイロハを学び独立。シングルフィン・ロングボードに傾倒し、国内外のスタイリッシュなサーファーの被写体を追い続ける。現在は藤沢本町のエドナ屋にてスタイリストMoriyasuが主宰するボタニカルデザインショップのBIRDIE、EDNA SURFBOARDSの榎本信介氏と共に自身の写真事務所を構え活動中。
インタビュー/川添 澪(かわぞえみお)●神奈川県鎌倉市出身・在住。カリフォルニア州立大学サンディエゴ校・サーフィン部卒。日本の1stジェネレーションのサーファーを父に持ち、幼い頃より海外のカルチャーに邂逅。90年初頭から10年間に渡り、カリフォルニア・サンディエゴ〜マリブに住み、ロングボード・リバイバルを体感。帰国後はON THE BOARD編集長に就任し、GLIDE他の雑誌媒体を手がける。これまで独自のネットワークでリアルなカリフォルニアのログ、オルタナティブサーフシーンを日本に紹介。