第6回 池田 潤 Smoothn Casual〜90'sロングボード・リバイバルと共に

第6回 池田 潤 Smoothn Casual〜90'sロングボード・リバイバルと共に

1991年のJPSAロングボード発足と共にプロとなり、その後は世界戦やASPコンテストで世界を転戦。海外でもそのエンターテイナーぶりが広く知られ、通称JUNBUGは日本を代表するサーファーとして今でもワールドフェイマスな存在だ。またジャーナリストとしての執筆活動を専門誌で行う傍ら、制作を手がけたスムースン・カジュアル・シリーズのムービーは大ヒットとなった。

7年前の夏に突然、脳出血に見舞われるもあきらめずにリハビリを続け、湘南の波のある日のインサイドではいつもボディーボードを手にした潤さんの姿を見かける。継続は力なり、そして温故知新ということで、90’sの世界的なロングボード・リバイバルと共に日本のシーンを牽引した重要人物が、ビーチドデイズに満を持して登場です。

 

(Junbug is back. Katase, Fujisawa 2023.)

 

潤さんは生粋の東京育ちのサーファーですよね。

はい。1965年7月6日、東京都渋谷区生まれ。でもそれを知ったのはつい最近での話で、たまたま自分の本籍を見たら渋谷生まれだった。それまでは世田谷って言ってました(笑)。今の日赤病院だけど、自分が生まれた広尾の産院はもうなくなっちゃった。 育ちは世田谷区赤堤です。今はもう世田谷の家は売っちゃったので、今はこちら(湘南藤沢)でお世話になっています。

東京から湘南へ移り住んだのはいつですか?

世田谷の高校を卒業してから、鵠沼にあったBetty'sのサーフショップで働き始めたんで、鵠沼海岸3丁目に18から21歳ぐらいまで住んでました。その後はオーストラリアに行ったり、バリに行ったり、旅人っぽいことをちょっと。

 

最初はBMXをやっていたんですか?

子供の時は野球をやったりして全然普通だった。でもなぜか、スケートボードを拾っちゃったんだよね、だからスケボーが1番最初。で、小学5年か6年の時に代々木公園に行き出したら、親もまあまあ甘くて小6ぐらいの時にもう結構ちゃんとしたスケートボード買ってもらった。初めてVANSの靴を買ったのも小学校6年か中1ぐらい。 それからトランクスはもちろんKATIN。その当時から生意気だな、こんな子供いたのって(笑)。

で、スケボーをずっとやってたけど、スケートボードのブームが1回なくなっちゃったの。その時にスケートパークも全部なくなっちゃったから、どうしようかな、何やろうかなって思って。本当はサーフィンやりたかったんだけど、 高校生だったからなぜかBMX。友達がやってて、 2、3年続けた。結構レースでは早くて、ランキング4位ぐらいまでいった。

当時のスポンサーがPRO KEDSで、そのチームの撮影で新島に行った時、大野 薫(Betty's代表 プロサーファー)っていう人がいて同じPRO KEDSチームだった。で、その撮影で新島シークレット・ポイントに行ったんだけど、海に誰も人がいないわけ。俺は小学校の時に水泳やってたから、じゃあ沖に浮いててくれない、って言われて。その時に初めて本当の硬いサーフボードに乗ったかな。

その後、高2の11月ぐらいにBetty'sに行ってクラブ員になり、 ラッキーなことにウェットは貰えたけどサーフボードは自分で買った。もうその頃は、撮影とか行くとさ、高校生だけどスポーツマンだからギャラが出るわけよ。だからサーフボードが買えた。で、そっからもうダメな人生を歩み出した(笑)。

なんで俺がサーフィンに熱中したかって言うと、やっぱパーティーとか行くと、女の子の方が多いぐらいだし、華やかじゃない。スケートボードとかBMXは女の子がいないわけよ。だから、あーこっちにしようと思って、自転車から飛び降りちゃった(笑)。

 

 (Northshore Hawaii 1984. Photo: Gordinho)

 

数年間は、湘南のビーチカルチャーを代表する大野薫さんのBetty'のショップで働いてたんですね。

そう。普通さ、サーフショップの店員さんは海外行きのチケットはもらえないじゃん。俺は夏に頑張って1人でお店番してたら、なぜか秋にハワイのチケットが貰えた。泊まるとこも全部セットアップしてもらって11月から2ヶ月くらいの滞在。そこで本物との差を見ちゃったわけですよ。俺が鵠沼でやってんのはサーフィンじゃないな、と思って。

そしたら、もうここにいたら上手くなんねぇと考え、世界ツアーに出るか世界旅行しないとダメだってことになった。それはずっと心の中で思ってて、そのためにはお金も必要だから、その間は東京で普通に働いてた。それで、 ハワイの借金とか全部返して、親にお金を借りて、今度はオーストラリアにちょっと修行に行ったら行ったで、みんなマジで上手いよって。何でこんな上手いのかって、本当はやめようかなとも思ったんだけどね。
で、帰ってきてしばらくたって、スケボーで骨折っちゃって、その後なぜか家にあったロングボードに乗り始めたのが、22とか23歳ぐらい。

そしたら、日本でもロングボード・リバイバルのブームが来たから、大会に出てみたんだ。元々ショートボードもちゃんとやってたから、当然乗るのは上手いし、パドルは早い。だから、プロトライアルに出て、1990年の25歳の時にJPSAのプロになった。プロ1年目はルーキーオブザイヤーも取った。でも日本のツアーは5年くらいで一回辞めて、その後はPSAAとかHLSAの世界の大会を全部廻った。何で世界を廻れたかって思うでしょ? その時、親父が亡くなって、遺産を現金で貰っちゃったんだよ。それで全部使い果たしたの(笑)。

大会の後はカリフォルニアで修行して、またJPSAのツアーに復帰したんだけど、サーフィンライフ誌にエルスタイルっていうコラムを書き出したのが、ジャーナリストになったきっかけ。親父は車の評論家だったから、家にはワープロがあったんだよ。雑誌の切り抜きをまとめてポートフォリオも作れたから、結構早い時期にグッドスポンサーも手にすることができて楽しい人生だった(笑)。今振り返ればいい時代だったね。

 

 

(World Longboard Championship, Hawaii 1993. Photo: Manabu Nomoto)

 

世田谷でサーフショップ、81プロダクション・ウェアハウスをやって、タイラー・ハジーキアンなどのボードを扱っていた頃ですね。かれこれ20年以上前。枡田琢治プロのTYPHOONのチームではミッチ・アブシャーやトレース・マーシャルも一緒でした。

その頃から何をしてたかって言うと、全てにシナジーが効くように何でもやってるわけよ。大会だけじゃなくて、ON THE BOARD誌の創刊からスーパーバイザーで関わって雑誌もやれば、サーフムービーも作ってる。カリフォルニアからはサーフボードを輸入して、と色々とやってまあ上手く食えてたんだけど、今の若いプロサーファーが全然スポンサーがつかないんですよ、って言ってるのもね……。

 

潤さんのSMOOTHN'CASUALシリーズのロングボードムービーは日本だけじゃなく、カリフォルニアのロングボーダーもこぞってチェックしてました。

そもそも何でビデオを撮り始めたかっていうと、その前は、業界にハービー・フレッチャーのフレッチャー・メディアと、アイラ・オパーっていう人の会社の2社しかなかったわけ。それこそ編集機材が高額だし、編集スタジオがないとまず制作ができなかった。だから若手のジョー・スコット(AdriftやLongerを制作したJ.Brother)とかも大変な思いをして作ってたよ。

1998年ぐらい、Windows95の後に編集ソフトのプレミアとか出て、 その後にiMacが発売されて、ノンリニアの動画編集が誰でも家でできるようになった。まだまだバグだらけで全然使えないんだけど、それがスムースン・カジュアル3の頃かな。1、2は俺もスタジオで作った。1ギガ1万円で、100ギガのハードディスク買うと100万円の時代。その後はVHSからDVDになって、流通も変わった。その頃がターニングポイントだったと思う。

枡田君はマリブに会社を作って、俺の81プロダクションも彼が半分持っている会社だったんで、よくマリブの家に泊めてもらって、カリフォルニアのサーファーを撮るようになった。マットハワードとか、ジョシュ・ファーブロウとか、シングルフィン・ロングボードのリバイバルの時のスターたち。実際に見てすごいなと思ったのは、やっぱりケビン・コネリーで圧倒的にびっくりした。タイラー・ハジーキアンもそうだけど、重いシングルフィンに乗って、サーファーシェイパーっていう、すごい古いルーツ的な動きをしてるし、それが変わってんなと思った。中村清太郎がケビンの所に行ったのもよかったね。ロングボードでちゃんと高校の時から留学して、わざわざやった人なんて、清太郎ぐらいじゃない。

当時はオーシャンサイドやベニスも危ないところだったけど、最近行ったら、えっこんなとこなんですかって、おしゃれな街に変わったよね。

 

(Tavarua, Fiji.  Photo: Bill Parr)

 

時代背景もあるかもしれないですが、以前は日本のプロロングボーダーは結構世界に出てましたよね?

最初の世界戦は1992年のフランス・ビアリッツで自力で10日間。メンバーは川井幹雄さん、中村清一郎さん、近江俊哉さん、あと岡野紀彦さんの従兄弟の田中ケンさんが観戦したいと一緒に行った。前は雑誌がいっぱいあったから、タバルア行きたいとかさ、 マリブの波に乗りたいとかの思いがあったよね。実際にマリブとかサンオノフレに行くと、ロングボードには楽しい所で。

俺は色んなものを見たくて、カリフォルニアに行って、で昔のカリフォルニアの人はなんでマカハに行ったんだろうってのもあってマカハに行くと、サーフィンのルーツがすごいわかるわけよ。ボディーサーフィンからあらゆるサーフィンは全部出来ちゃうんだもん。自分でもスタンダップをやったみたり、実際見て確認しないと納得しないんだよ。

俺の世代より前の人はあんましてないんだけど、湘南に引っ越すとかさ、海のライフスタイルを中心にするっていうのもすごく大きいよね。俺も移住者じゃん。毎日サーフィンしたいなっていう。だから、それが夢だったんだろうね。2世代、3世代に渡ってサーフィンしてると、日本もどんどん変わってくると思う。

 

(Super legends at Minami Cup in the 90's. Photo courtesy of Jun Ikeda)

 

今のシーンを見てどう思いますか?

サーフィンのルーツでは全くない方向、プロスポーツの方に向かってるよね。ロングボードはルーツだから、やっぱライフスタイルであって、その格好良さってのが面白いんだよね。よくわかんないサーファーのライフスタイルってあるよね。やっぱりその辺から入ってくんじゃない。俺が子供の頃は、カップに入れたコーヒーを車に乗って飲みながら海に見に行くなんていうのはなかった。それって文化、カルチャーから入ってくるじゃん。

アメリカだと各地のクラブコンテストがあって、俺もどっから出てたかはあんま覚えてないんだけど、たまに出れたりしたわけよ。サーフィンするだけじゃなく、バーベキューがあったり、バンに泊まってるやつがいたりしてさ。雑誌やインターネットを見るだけじゃなくて、そういうのから入ってほしいよね。

あと、海に来てもっとゆっくりした方がいいと思うよ。みんな朝だけサーフィンして、その後ビーチに降りないの。ブランケットとか持ってって広げて、ビーチでゴロゴロしなさいって。で、何がいいのかはやればわかるから。サーフィンでキャンプ行くとどうなるのとか。何で楽しいの、こんな不便なことしてって思うから。ビーチドデイズはまさにこの難しいところに手を出してるけど、それがカルチャーなんだよね。

 

 

池田 潤(いけだじゅん)

●1965年生まれ。東京都渋谷区出身・神奈川県藤沢市在住。1991年JPSAロングボードツアー発足と同時に25歳でプロに転向。1992年ASPロングボードツアーに参戦し、年間ランキング世界19位。他にもPSAAやハワイのバッファロー・コンテストなど国内外の大会に出場。ビーチカルチャー・ジャーナリストとしてサーフィン誌での執筆、「池田潤のロングボードクリニック」の監修を手がける。映像では国内随一のロングボード・ムービーシリーズのスムースンカジュアルを長きに渡り制作した。

 

インタビュー/川添 澪(かわぞえみお)●神奈川県鎌倉市出身・在住。カリフォルニア州立大学サンディエゴ校・サーフィン部卒。日本の1stジェネレーションのサーファーを父に持ち、幼い頃より海外のカルチャーに邂逅。90年初頭から10年間に渡り、カリフォルニア・サンディエゴ〜マリブに住み、ロングボード・リバイバルを体感。帰国後はON THE BOARD編集長に就任し、GLIDE他の雑誌媒体を手がける。これまで独自のネットワークでリアルなカリフォルニアのログ、オルタナティブサーフシーンを日本に紹介。

 

 

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